酒に伝統あり 店に歴史あり   
 
仕込み
銘酒には、銘酒ゆえの誉れがある。日本のよき文化伝統が薄れつつあるなかで
語り継ぎたい酒物語がある。その心にふれていただきながらお酒の悦びを
味わってほしいと願うものである。


天保6年(1835)に建てられ修築復元された琴平大芝居で有名な「金丸座」

vol.1 激動の時代を生きた夢とロマンと心意気
凱陣の酒造りスピリットの原点を求めて・・・
 
江戸時代末期、伊勢神宮や長野の善光寺とならぶ庶民信仰の聖地であった讃岐琴平。 一生に一度は金毘羅に参拝したいと願う庶民の金毘羅詣りにより、当時の琴平は大いに栄 えていた。 そこには多くの人の往来によって全国の情報が集まり、 時代の大きなうねりを 感じうる自由で進歩的な雰囲気があったに違いない。 この地に大志をもって時代を 駆け抜けていった男達の生きざまを追う。

幕末の志士となった讃岐榎井(現琴平町榎井)の日柳燕石(くさなぎえんせ き)と農民救済に生涯を捧げた同郷の酒造家長谷川佐太郎(はせがわさたろう)
 
  文献によれば、日柳燕石は文化14年 (1817) 天領地であった琴平町榎井の地主で
加島屋に生まれた。 幼少の時より学問に秀で叔父の石崎近潔、琴平の官医 三井雪航について、
経書. 詩文を学ぶ。 燕石21歳の時父母をなくし一時は酒をあおり 遊興にふける博徒の頭
となった。
その後燕石は勤王を志し桂小五郎ら勤王の志士と交わるようになる。高杉晋作は慶応元年(1865)琴平に逃避行をして、1ヶ月たらずの間燕石の宅に潜伏する。
燕石はこの高杉晋作をかくまった罪で、高松藩獄で4年を過ごす。
時至りて明治元年(1868)出獄するや北越征伐軍に従軍するが、越後柏崎(現新潟県)
にて病死。享年52歳。
彼の居宅「呑象楼」(右写真現在は榎井小学校移築)などで交友があった志士には、
長州の桂小五郎、高杉晋作、吉田松陰、伊藤俊介、土佐の中岡慎太郎、越後の長谷川
正傑らがいた。そしてもう一人彼を経済的に惜しみなく支援した同郷の長谷川佐太郎が
いた。

 
長谷川佐太郎(右写真)は、文政10年に同じく琴平町榎井に生まれた。
生家は二千石 の豪農で酒造家.新吉田屋を営む古い家柄であった。彼も幼少より
商家の教育を受けた。

佐太郎は少年時代に風水害で凶作となった時の百姓の実状や番頭が小作人を励ます姿など
見て育った。燕石と同郷で、11歳年下と言う事もあって佐太郎は燕石を兄のように
慕っていた。
 その後、勤王思想に共鳴し家屋敷を売り払って理想を追求した燕石に対し、その信条に
惹かれ、佐太郎は最後まで惜しみなく経済的支援を続けた。
 燕石の所へ高杉晋作が潜伏していた話は先ほど紹介したが、やがて補吏の手がのび、
燕石は佐太郎に晋作の身を預けた。その後、晋作が匿われていることを嗅ぎ付けた補吏が
長谷川佐太郎宅へ押しかけ、佐太郎の妻の髪を引っ張りまわし行方を尋ねたが
一言ももらさなかった。晋作は酒樽の中に身を隠し役人が去ってから無事逃れたと言う。
 現在丸尾本店(凱陣)には当時の部屋が残っているが、客間の床の間にはからくりが
あり、通路を通って床の間の裏に3、4人入れる隠れ部屋がある。
また佐太郎が使っていた七畳半の居間の天井裏にも縄梯子で、数人が隠れられるように
なっている。さらに晋作が無 事に逃げ延びた時の佐太郎の詠んだ短冊が今も丸尾本店に
残っている。
「ぬれものは無事に届いてしぐれけり」
 
 さて讃岐には、大小多くのため池があるが、現在でも全国一の規模を誇る満濃池がある。
満濃池は西暦821年に弘法大師(写真は善通寺の弘法大師像)が「その国の衆生を助ける
がため築き給へる池なり。...」(他の文献によると大修築した)とされるが、
その後もたびたび決壊した。雨が少なく大きな川のない讃岐では昔から渇水と洪水、
まさに水との戦 いであった。

 佐太郎が28歳の安政元年(1854)7月満濃池が決壊し、郡内の村々が水浸しと
なり、佐太郎の酒蔵の一部倒れるほどの被害となった。その後14年間満濃池は決壊した
まま農民は毎年干ばつの被害に悩まされたのであった。
 佐太郎はこの窮状を見かね私財を投じて慶応4年(1868)から再三に渡り直訴する。
時代は幕末から明治への動乱の時期であった。同池の水利の問題や、農民達の不満も爆発
寸前であったが、佐太郎は説得しねばり強く窮状を訴えた。
 明治2年、やっと高松藩執政、倉敷県参事の同意を取り付け着工にこぎつけた。念願の
堤防修築工事ができたのが明治9年6月のことであった。
 記録によると、修築工事に従事した人夫延14万5千人資料に明確なものだけで
2万8千円が費やされ、その上佐太郎は私財2万円投入している。
 燕石への政治献金、そして満濃池の修築に私財を投入し完全に私財を使い果たした。
晩年佐太郎夫婦には後継ぎが途絶え、丸尾氏の曽祖父、丸尾忠太に見守られながら
酒蔵の見える離れ座敷で暮らした。明治31年72歳で不帰の人となった。
丸尾忠太氏は酒番頭として、佐太郎を身近に影から助けてこられた方で、酒の権利を
買受け長谷川佐太郎の精神を受け継ぎ酒造りを続けた。

凱陣には、脈打つ長谷川佐太郎の心意気がいまに引き継がれている。

 
 
【資料】郷土史辞典香川県 郷土歴史人物辞典香川 四国新聞讃岐人物風景丸尾本店資料 等

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